光の調べ

こみやま響子       





 夜も更け、客足が一段落した頃、将は叔父の孝司に誘われ席を立った。
 玄関に出ると、白黒の布に囲まれた一角で客を送り出して戻ってきた父、達夫と出くわした。
孝司は「ちょっと散歩してきます。」と言い、「将も疲れているだろうから」と、付け加えた。
 達夫は、孝司に手を引かれた将を見やり、淡く微笑んでうなずいた。

 少し歩くと、町全体が見下ろせる小さな丘に出た。わずかな街の灯りが、海原を漂う漁火のように、ぽつんぽつんと浮かんで震えている。
 将はしゃがみこみ、足元の草にたまっている夜露に触れた。孝司はうつむいた将の後頭部を見つめ、煙草に火をつけた。
「眠くないか?」
「ううん、大丈夫。」
 少年の髪も、水気をたっぷり含んだ草葉のように月の下で黒く輝き、小さく揺れた。
 虫の声が、街の隅々まで染み入るように響いていた。風は無く、月は高く、冴え冴えとした紫水晶のような十月の夜気が二人の肌を刺した。
「ねえ、孝司兄ちゃん。」
 しばしの沈黙の後、将が口を開いた。
「僕と遼は双子なのに、似てないって言われてきたんだ。なのに、お棺の中の顔、やっぱり僕にそっくりって思った。自分でも初めて思った。なんでだろう?」
 確かに、将と遼は一卵性双生児でありながら、あまり似てなかった。世間の兄弟程度には似ていたかもしれないが、よく似た従兄弟同士、と言っても通るくらいだった。
 しかし孝司にとっては、あらためて遼の生前に想いを馳せることは、たとえそれがどんなに些細な事であっても、死という逃れようのない闇を色濃くし、哀しみを膨らませる気がした。まして、双子の片割れの将が、その顔について語るのは生々しく、重かった。孝司は将の言葉をかき消すように、明るさを装い、上ずった声で言った。「馬鹿言うな。おまえたちは最初からそっくりだよ。おまえと遼と、おまえたちのパパ、三人同じ顔だよ。」
 孝司は、棺に横たわる遼の顔を思い出した。眠っているように穏やかな、雪のように白い、その死に顔…その上に掲げられた遺影は、今は何も語らなくなったそれとは対照的に、利発で活発だった彼らしい、今にも飛び出してきそうな極上の笑顔だった。
 その微笑みは同時に、耳奥にこびりついた読経の声や喉を刺す香の煙をつれてきた。
 午後七時に始まった遼の通夜には、多くの弔問客が詰め掛けた。小学校の同級生たちが、濃紺の制服に身を包み、肩を寄せ合ってすすり泣く光景が大人たちの胸をしめつけた。
 双子の母・万里子は、孝司の実姉だ。
 昨晩、孝司は万里子からこの訃報を受けた。不慮の事故で突然愛息を失ったというのに、くぐもった姉の声は、まるで以前から覚悟していたことがついに起こってしまったかのような、落ち着き払った、どこか乾いた響きだった。

 昨日、遼と将が通う小学校では、秋の運動会が賑々しく開催された。プログラムは順調に消化されていたが、お昼近くになって、頭上には厚い雲が広がり始めた。頬を撫でる生暖かい風や、ねっとりと首に絡みつく湿気。今にも大粒の雨が落ちてきそうな陰鬱な空の下で、大人も子供も次第に落ち着きを失くしていった。
 生き生きと躍動していた子供たちの間に、この楽しい時間が奪われてしまうかも知れないという緊張感が広がった。皆浮き足立った、奇妙な興奮状態の中にあった。
 事故が起こったのは、双子が出場する三年生の障害物競走の時だった。
 スタート直前、とうとう雨粒が落ち始め、教師たちは中止を検討し始めた。午前の部はあと二種目を残すだけ。この時点ではまた小雨だった上、予報では「午後は晴れ」となっていた。
 結局、障害物競走は予定通り行われることになった。
 遼は、スポーツ万能で学年でもずば抜けて足の速い児童だった。この種目でも、前日のリハーサルではぶっちぎりの速さを見せつけていた。
 号砲とともに、予想通り遼が一番に躍り出た。
 次の組で待機していた将は、雨に目をしばたたきながら、あっという間に遠くなる遼の背中を見つめた。
 平均台を軽快にわたり、猫のようなすばしっこさで網をくぐり、いよいよ最後の障害物である、四段積まれた跳び箱に迫った。
 加速をつけて思い切りジャンプし、手を使わずに勢いよく飛び乗る。その瞬間… 濡れていた運動靴の底が滑り、遼の体はバランスを崩してグニャリと折れ曲がったように傾いた。そして、不自然な姿勢のまま、頭から地面に叩きつけられたのである。
「本当に運が悪かったのね。跳び箱の高さからなんて、打撲や骨折ですんでもいいくらいなのに。あの子、救急車の中で顔が真っ白になっていって、二度と目を開けることはなかった。」
 万里子の声が、孝司の耳朶に蘇る。「跳び箱のとき、他の子はみんな手をついて、それから足をかけて超えていくらしいの。」
 この言葉を、彼女は電話の向こうで繰り返した。「みんな手をついて登る。なのに、あの子は…」
 感情を押し殺し、他人の書いた文章を棒読みするように何度も。
 だが、遼の遺体が家に帰ってからの万里子は、孝司に連絡をしたときとは別人のようになった。
 病みほうけた老婆のように遺影を見つめているかと思えば、大声で遼の名を呼んだり、横にいる将にすがったりして、激しく嗚咽することもあった。
 
 孝司は将と二人きりになっても、気の利いた言葉を書けてやることができなかった。
 日ごろから、双子は彼のことを「お兄ちゃん」と呼び、慕っていた。孝司もまた、愛くるしい甥たちを幼い頃から可愛がり、休日にはよく遊びに連れ出したものだ。通夜の会場を将と一緒に出たのも、あの海底のように重く息苦しい場所から切り離し、少しでも和ませてやれるのは自分しかいないと考えたからだ。
 けれども、二人きりになると、その薄っぺらな自信は萎えた。
 少年は兄弟を、しかも自分と一緒に生を受け、9年間片時も離れず過ごしてきた分身のような存在を、突然目の前で奪われたのだ。彼が受けた衝撃の大きさは、察するに余りある。否、「衝撃」どころか、実際何が起こったのか、どんなに大きなものを喪失したのか、彼の幼い魂はまだ正面から理解できてないかもしれない。
 すると、唐突に、将の方から言葉をかけてきた。
「お兄ちゃん、『ルネサンス戦記』って知ってる?」
「ああ、今流行ってる漫画だろ?読んだことはないけど。」
 将はまたすぐに黙り込んだ。鈴虫の鳴き声が、二人の沈黙を埋めていた。しばらくして、
「遼が好きだったんだ。お棺に入れてあげようと思って。」
「そうか…どんな話?」
「主人公は地球を守るために宇宙を駆け巡るパイロットでね。すごく頭がいいの。自分で宇宙船や戦闘機やタイムマシンまで作っちゃうんだ。そのうえ格闘技もできて、とにかく強くてさ、カッコいいんだ。」
 将は立ち上がり、身振り手振りで説明した。だが、ひとしきり話すと、ふと我に帰ったように空を見上げ、口をつぐんだ。
「そろそろ帰ろうか、お母さんが捜してるかもしれない。」
 孝司はそう言うと、将の手を取り、もと来た道を家に向かって歩き始めた。
 将の真新しい黒革の靴が、草の上できゅっきゅっと鳴った。と同時に、音のないフィルムで映し出されるように、孝司の頭の中に遼の運動靴が滑る場面が流れた。
 家が近づくと、将は孝司の手をぎゅっと握り締めた。やはり眠いのか、将の手は熱っぽかった。孝司は「ちょっと寒くなったな。」と言いながら、その小さな手を強く握り返した。
 時計が午前12時を打つ頃には、会場はほとんど近親者だけになった。
 将は万里子の膝の上に頭を乗せ、腹にうずくまるような格好でまどろんでいた。
「眠ったみたいだね。部屋に運ぼうか?」
 孝司が促したが、万里子は首を振り、
「しばらくこのままでいたい。」
と、息子の髪を指でとかしながらつぶやいた。
 将には二人の会話が聞こえていたが、引きずられるような眠気に目を開けることができなかった。
 夢と現実の間を往来するような不確かに意識の中に、過日のある出会いが浮かび上がってきた。将は、遼を感じ、涙を流した。


 遼と将は、緑の生い茂った山道をバスに揺られて進んでいた。
 町の西側にあるY山は、二人が住むS町とI市にまたがったそびえる、標高千メートルほどの山だ。その峠を越え、I市で一人暮らしをする祖母の家に向かっていた。
 運動会の一週間前の日曜日だった。
 二人は並んで最後部の席に座っていたが、車内に他の客はない。
 二年前、Y山を貫く二車線のバイパスが開通したため、峠の路線バスを利用する客はめっきり少なくなった。だが、春は桜、秋は紅葉と、豊かな自然を抱く峠の風景は地元の人々に愛されていた。山の中腹には小さな滝もあり、夏にはハイキングやキャンプに訪れる人も多くいる。そのため、バイパス完成でバスの本数こそ減ったものの、いまだこの路線の廃止には至っていない。
 この峠には、30ものカーブがある。そのカーブのたびに、バスはコンパスで弧を描くように大きく回り、特に最後部のシートは左右に激しく振られる。
 この日も、右カーブのときは将の方へ、左カーブのときは遼の方へ、二人の体は流され、押し競饅頭のようにくっつき合うのだった。長いシートの上では、二人の体だけではなく、放り投げた鞄が滑り、水筒も転がった。二人はそのたびに大笑いしながら、小さなカーブでも相手にわざと激しくぶつかって奇声を上げた。
 やがて体の揺れもなくなり、古いバスの軋音も低くなると、山頂に差し掛かったことを知る。
『星の原』という、この辺りでは一番高いところに位置するバス停に、若い男が立っていた。二人ははしゃぐのをやめ、乗り込んでくる男を凝視した。
 男は車内を見渡し、遼と将に気づくと、最後部の席へまっすぐ歩いてきた。
 年の頃は三十前後…ちょうど伯父の孝司と同年代、と言った感じだった。
 孝司はどちらかといえば二枚目で、男女を問わず人気のあるタイプだったが、この男もまた、人目を引く美しい顔立ちをしていた。
 バスが動き出しても男は腰を下ろさず、双子の顔をかわるがわる見つめながらたたずんでいた。
 遼は眉間にしわを寄せ、責めるような口調で、
「座らないと危ないですよ。」
と、言った。男はふっと微笑み、双子の間に割って入るように座った。
 遼はますます不機嫌になり、男をにらみつけた。そして、「なんだ、こいつ」と、小さく口を動かした。
 将は、割り込んできた男にはじかれた格好になったが、なるべく男から体を離そうと、尻をずらし両腕を縮めた。
 男はふうーっと大きなため息をつき、やがてバスの振動にかき消されそうな小さな声でつぶやいた。
「さっきのバス停、『星の原』いうたよね?」
 関西なまりがあった。
「そうですよ。」
「人を捜してるんやけど、君たち以外にこのバスに乗ってきた人はおらんかった?」
 二人とも、首を振った。
「髪の長い、若い女の人や。年は僕と同じくらいの…」
「見なかったよなあ。」
 遼は男の背中越しに将に同意を求め、将もこくりとうなづいた。
「最後に会った時、彼女が言うたんや。『私は星がつく場所で待っています。あなたが来るまで、ずっとそこで待っています』ってなあ。」
「時間、間違えたんじゃないですか」
 将がそう言うと、遼もすぐさま、
「連絡取れないの?携帯電話とか。」
 それぞれ、言葉の端にまだ棘が残っていたが、二人の中には男を排斥しようとする敵意のような感情は薄れていた。
 バスは峠を下り始め、道はまたS字カーブに入っていったが、二人は先刻の体を押し付けあう遊びより、何か訳のありそうなこの男の相手をするほうがいい暇つぶしになると踏んだのだ。
 男の方も、それに答えるように話を始めた。
「連絡はとれんのや。彼女とはもう長いことおうてない。僕たちは恋人同士やった。でも、ある日突然会えんようになってな。今はどうすることもできんのやあ。そやから、時間はおろか、何年何月何日かも約束でけへんかった。彼女が言うてた『星』のつく場所…それだけが、手がかりなんや。でも、やっぱりここも違うてたみたいやなあ。いろんなとこに、聞いて回ったんやけど…」
「この辺りで『星』っていう言葉が入るのは、さっきの『星の原』だけですけど。」
「いいんや。この町とは限らんからね。僕は彼女を捜して、『星』がつく場所をずっと巡り歩いてるんや。ここに来る前は、福岡の星野村いうところに行った。先月は、熊本、四国の高知にも。去年は北陸にも行ったで。ここにおらんかったら、また次の場所に行くまでや。」
「はあ?」
将はぽかんと口をあけて、男を見た。
「もしかして、日本中を?」
「そうや。どこなのか、いつになるのか検討もつかへんけど、とにかく会えるまで…や。たとえ、おじいさんになっても。」
「うそぉ!」
 遼はそう言いながら、男の背中側から将の方を覗き込んだ。そして、こめかみのところで、「パー」と、手を広げて見せた。「信じてもらえんでもええんやあ。」
と、男は独り言のようにつぶやいて、目を閉じた。


 遼が亡くなってから、二ヶ月が過ぎた。
 Y山の森も紅葉の盛りを過ぎ、乾いた枝は木枯らしに小さな泣き声を上げながら、冬の到来を告げていた。
 家の中は、毎日騒然としていた。
 学校関係者や弁護士が入れ替わり立ち替わり訪れ、事故責任の所在や賠償問題について話し合いがもたれていた。
 もっぱら、父の達夫が客の相手をした。達夫は元来温厚な気性で、争いごとは好まなかった。しかし、学校側がわずかな金額を提示し、早々に決着をつけて事態を取り繕ろうとする姿勢には、烈火のごとく怒った。
 だが、言いたいことを全部ぶちまけると、ふと行き場のない虚無感に襲われ、その激情は急にしぼんでしまう。…その繰り返しだった。
 結局、弁護士を通じて示談に応じることになり、年明けには決着がつく見通しになった。
 来客があると、将はどんなに穏やかに話がなされていても妙に落ち着きがなくなり、それを察した万里子に促されて二階の部屋に逃げ込んだ。

 そんなある日、孝司が将を食事に誘った。
「駅前にできたスパゲティ屋、うまいって評判らしいぞ。」
 午後二時近くだったので、客はまばらになっていた。店内は、赤や緑のクリスマス・リースに彩られ、中央に据えられた大きなツリーが星のように瞬いていた。
 将はクリスマスの特別メニューを頼み、嬉しそうに頬を赤らめて店内を見回した。
 将の子供らしい笑顔は、孝司を心底安堵させた。
 遼が亡くなって以来、孝司は将がひどく泣いたり沈んだりしている姿を一度も目にしなかった。遼の死によって将の一部もまたちぎれてなくなり、彼を、感情を失った人形のような子供に変えてしまったのではないか、という不安を抱かせた。一方では、両親に心配をかけまいとして、精一杯気を張り、誰もいないところで一人哀しみに押しつぶされ、小さな胸を震わせているのではないか、とも考えた。
 いずれにしても胸が痛み、やりきれなさを感じずにはいられない。ましてや、大人たちの間で繰り広げられる争いが、少年の心の傷をいっそう深くしているのでは…と危惧していた。
将の瞳に屈託のない純朴な輝きを見つけると、孝司は消しきれない厚い雲の隙間に、一条の『光』を見出した気になる。
「なあ将、お父さんやお母さんに言えないことがあっても、俺には話してくれよな。」
 孝司の言葉に将は微笑み、
「うん。」と、無邪気に答えた。そして、
「前から、孝司兄ちゃんに話そうと思っていたことがあるんだ。」
「早速きたな。どんなこと?」
 身構える孝司に、将は運動会一週間前に出会った『星の原』の男のことを話し始めた。



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