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だいだい
野波幸
一、
小さい頃、僕は夕方が大嫌いだった。遊んでいた友達と別れるのが名残惜しかったからだ。家に帰ったら帰ったで、けろりとするのだけれど、別れるその瞬間がとても寂しくて、心細くて、つらかった。そんな僕の気持ちを知っていた近所の2歳年上のお姉さんは、一緒に遊んでくれた後、夕方になるときれいなアルトで歌ってくれた。
ゆうやけこやけ 日が落ちる
空と太陽 だいだい色
夜がやってくる前に
早くおうちに帰りましょう
おいしいご飯が待っている
手を振り合って 帰りましょう
空がだいだい
町がだいだい
だから、バイバイ
その後は、決まっていたずらっぽく目を細めて僕の手を握ると、僕を家まで送ってくれた。その時のお姉さんは、すんなりした白い腕も、さらさらした短い髪も、長いまつげも。そして、花がほころんだような笑顔も、握った手の暖かささえも、優しくて少し切ないような、だいだい色に染まっていた。
「芦田トンネル跡、芦田トンネル跡です。長らくのご乗車、ありがとうございました」
運転手さんに礼を言ってバスを降りた。午後七時を回っているが、八月の空はまだ明るく、熟れすぎたトマトのような太陽がまだ沈みきっていない。K町。平成の大合併の影響を受け、もうすぐ地図から姿を消す田舎町。僕の生まれ育ったふるさとだ。大きく息を吸い込んでみると、柔らかな土と木の匂いが鼻腔をくすぐる。懐かしい匂いをかいで、実感した。あぁ、僕は戻ってきたのだ。
他県への大学進学のため、家を出てからもう三年という年月が経つというのに、我がふるさとはあまり変わり栄えがしない。苗がさらさらなびく棚田も、狭い道路を走るコンバインも、僕が出た時とまるで同じだ。バイトと勉強と遠い距離とで、親不孝な事に今まで帰ったことはなかったが、三年生の夏休みにようやく帰省することが出来た。土産や、なんやらかんやらを詰め込んだ重たいボストンバックをえっちらおっちら運んでいると、左に小さなトンネルが見えてきた。モルタル塗りの古いトンネルで、蔦やコケにびっちり覆われている。
「芦田トンネル」、それがその短いトンネルの名前だ。小さな芦田鉱山と町とをつないでいたこのトンネルは、僕が幼稚園の頃には鉱山が閉山されてもう使用されなくなっていた。大人の出入りのなくなったそのトンネルは、僕ら子供たちにとって最高の遊び場所だった。かくれんぼ、秘密基地作り、落書き、なんだって出来た。時には弁当を作ってもらって、朝から日が暮れるまで遊んだものだ。懐かしくなって覗いてみると、落石かなにかで塞がってしまっているのか、向こう側からの光が見えない。さらに奥を覗き込もうと、顔をトンネルの中に突っ込んだときだった。
「あれ、巧くん?」
振り向くと、少しはなれたところから女性がこちらを見ていた。彼女の大きな黒目、快活そうなショートボブには覚えがあった。
「え、あれ、ヒデ、英ちゃん?」
「あー、やっぱり巧くんだ!」
英ちゃんこと、近所の二つ上のお姉さん、前園英子さんが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「久しぶりじゃなー。三年間もおばさんほったらかして何やってたんよ」
懐かしい地元の方言で、英ちゃんは笑った。
「しかたないだろ。バイトとか勉強が忙しかったんだよ」
僕はといえば、もうすっかり標準語だ。
「何なん、方言と違うじゃん。都会暮らしが板に付いたんなー」
「都会暮らしが板に付くって、なんだよそれ。文法的におかしいよ」
「あら、そうかな?」
「おかしいって。それじゃあ、作家としておえん(駄目)じゃん」
方言が一言だけ口をついで出た。外国人が始めて日本語を喋るような、ぎこちない口調になるのが自分でもよく分かった。
「そっかー。……うん、おえんな」
英ちゃんは、頷きながら笑った。
「ところで、英ちゃんこんなところで何してんの」
「え、あー……、散歩」
そう言って、英ちゃんはスニーカーで道路を蹴ってみせた。スカートの裾から、つややかな膝がのぞく。
「散歩?」
「うん。今度書く話のイメージが思い浮かばんのんよ。そんで、気分転換」
「作家っぽいなー」
「作家じゃもん」
「でも、もう帰るだろ?」
英ちゃんは僕を見て頷いた。「見て」というよりは「見上げて」と言ったほうが、より正確だ。小さな頃は、もちろん英ちゃんのほうが大きくて、頼りになって、お姉ちゃんだったのに、今では僕のほうが背も高くて、強い。二年の年齢差だってあまり感じなくなっている。三年前もこうだったのだろうが、あの頃はずっと近くにいたから分からなかったのだと思う。いつのまにか、立場が反転していたという事が。
どちらからでもなく歩き出すけれど、話す話題が思い当たらなくてずっと黙ったまま、あぜ道を歩き続けた。ざくざく、と草を踏む音と、ヒグラシの鳴き声しか聞こえない。都会とは違って、ずっと黙っていても苦にはならなかった。耳に聞こえる田舎のBGMも、隣にいる英ちゃんの気配も、心地よかったのだ。僕の家の前に着くと、英ちゃんはまたね、と手を振った。英ちゃんの家はもう少し奥にある。またな、と僕も手を振り返す。振り合う二人の手が、いつの間にか薄暗くなった景色の中で、やけに小さく見えた。
まるで、さよならを言い合う子供の手のようだった。
三年ぶりの我が家は、少し小さくなったようだった。よく走り回って怒られた居間も、少しばかり窮屈だ。こんなとき、僕は時間の流れを感じる。もちろん、僕が大きくなっただけなのだけれど。そして母は、三年前より『おばさんパワー』が増していた。
「ちょっと、あら、やだ巧。男らしくなったなー」
ただいまを言って早々、そう言って肩をバンバン容赦なく叩いてくる。立派におばさんのボディーランゲージまで覚えたようだ。手加減は抜きらしくて、痛い。
「痛いなぁ」
「大きくなってー!」
「何言ってんだよ、母さんが小さくなっただけ……」
そこで不意に口をつぐんだ。少し腰の曲がった母を見つめる。どちらが大きくなったとか、小さくなっただけじゃない。きっと、その両方なのだ。そして、これからもきっとそれは開いてゆくんだろう。そう思うと無性に切なくなった。
そんな僕の気持ちを知らないであろう母は、両手を打ち鳴らすと、二階を指差した。
「ほら、ぼーっとせずに早く二階に上がって荷物置いて、お仏壇に線香上げてきなさい」
「はいはい」
軋む階段を登り始めると、また下から叫んできた。
「お仏壇の饅頭、食べたらおえんでー!」
「うるさい! 分かってるってば」
僕はもう大人なはずなのに、世話焼きな母の前だと僕はいつも子供に戻ってしまう。
「それでな、五丁目の敦子おばあちゃん、足を粉砕骨折して入院しとんで」
「うそ、まじで?」
小さな我が家の食卓は、酒盛りのような盛大さだった。母の得意料理のオンパレードである。美味しくて、嬉しいのだけど、次から次へと出てくる料理を全部食べれる自信がはっきり言って無い。
「お隣の直美ちゃんも、お嫁に行ったしなー、もうこの町も活気が無くなってきとるわー」
僕の目の前に座る母はため息をついた。ため息をつくために、ぽっかり空けた口へ沢庵を一切れ放り込んでぽりぽり齧り始める。
「仕方ないよ、田舎だからね」
「そうよねぇ、合併しちゃうんだもんねぇ。若い人も出て行っちゃうもんねぇ」
そう言ってお茶をすする母に、僕は困ったように笑うことしかできなかった。僕も、そうやってこの町から出て行った一人だ。
「巧、あんた、五日したらもう帰るん?」
「まあね。レポート溜まってるんだよ」
「まあ、お盆の間はこっちに居れるんだから、よかったわ」
母は食べ終わった食器を片付けながら、笑った。
「ゆっくりしてってな」
いつもの豪快な笑い声のない、寂しそうな微笑だった。僕は立ち上がると、母の手から食器を奪って流し台へ運んでいく。
「僕がやるわ」
「ちょっと、ええよ。そんなん母さんがやるから」
「いいって、いいって、母さんは休んどいてよ」
後ろを向いていたから、母がどんな顔をしていたかは分からないけど、豪快に鼻をすする音が背中から聞こえた。
「……ありがとうね」
「いつも世話になってるから」
「親が子の世話をするのは当たり前じゃ」
母は思い出したように付け加えた。
「あ、そうそう。お盆の夏祭り。今年からまた、ナイヤガラの滝が復活するんよ」
「え、ほんとに?」
「巧、大好きだったよね」
僕は食器洗い洗剤で泡だらけの手でガッツポーズをした。費用がかさむという理由で廃止されていたナイヤガラの滝が、復活するというのだから見ない手は無い。皿洗いする手にも力が入る。僕らの町のお盆は、通常のお盆の一ヶ月遅れで行われることになっている。明後日の15日を中心に、13日を迎え盆、16日を送り盆といい、13日から16日までの四日間をお墓参りに行ったりして過ごす。夏祭りは15日だ。
「夏祭り、楽しみだなぁ」
窓の外から、涼しげな虫の羽の音が聞こえてきた。
二、
「いつまで寝てんの! 早く起きなさい!」
布団が剥ぎ取られるのと同時に、母の声が頭に降ってくる。
「休みなんだから、寝させてくれよ……」
「お墓参りにいくよ! こら、もう。またおなか出して寝てから……!」
「わ、いきなり腹触るなよっ!」
僕は布団から転がり出た。
「お腹が冷えるで。腹巻したら?」
「いいって。腹巻なんかしたら寝汗かいちゃうからさ」
僕は部屋から母を追い出して、サマーセーターとジーンズに着替えた。時計を見ると驚くことにまだ6時35分で、耳を澄ますと隣の公園から、ラジオ体操の音楽が聞こえてくる。
次は足を大きく開いてー、背伸びの運動! はつらつとしたインストラクターのおじさんの声が、寝起きの耳に右から入って左から抜けていく。昨日、遅くまで起きていたから寝不足だった。こんなに朝早いのに、バイタリティー溢れる母の顔を思い出す。
「年寄りの早起きめ」
下に降りると、もう食事の支度が整えてあった。ご飯に、味噌汁に、焼き鮭に、沢庵。和食派のオーソドックスなスタイル。いつもトーストとカフェオレだけで部屋を出る僕にとって、こんな朝食はすごく久しぶりだった。
「もう母さんは食べたの?」
「うん」
母は洗濯物を洗濯機に放り込みながら答えた。
「食べたら、食器洗ってな。あんたの支度が終わったら行くから」
「分かった」
味噌汁をすすって、ご飯をかきこむ。鮭をほおばりながらテレビの天気予報を見ると、お盆はずっと晴れだった。特に夏祭りの日は大快晴で、雲ひとつ無いそうだ。沢庵を齧りながら食器を片付けて居間に入ると、机には墓参り道具一式が袋に準備されていた。
「母さん、そろそろ行こうか」
「鍵掛けるから、巧が車に荷物運んどいて」
お線香、水の入ったペットボトル、お米やお供え物が入ったタッパ。ご先祖様を呼ぶ叩き鐘などをバックパックに詰めて家を出る。車のトランクを開けていると、英ちゃんがやってきた。
「え、何々? 巧くんとこ、お墓参り?」
「うん。朝から母さん、はりきってるよ」
初盆だからと僕が笑うと、英ちゃんは少し俯いた。
「……おじさんの?」
「うん」
僕は小さく笑った。
「脳卒中。親父、仕事命だったから……」
そう言って、父の顔を思い出そうとした。後退しかけた頭に、鼈甲フレームの眼鏡。僕みたいに、ひょろりと背が高かった。
「まさか、あんなにあっというまに死ぬなんて、思っていなかったけどね」
無性に切なくなってきて、馬鹿みたいな声を上げる。きっと、こういうのを空元気というんだろう。何も言うことが無くなって、ふと英ちゃんのほうを見て、僕は驚いた。
「え?」
さっきまで居た英ちゃんがいないのだ。慌てて道路に飛び出して辺りを見渡す。暑い夏の朝の道路に、人影は見えない。
「さ、行こうでー」
張り切った母は、ぼんやりと道路を見つめる僕をけげんそうに見つめた。
「え、巧。どしたん?」
「いや……」
僕は首を振ると、車の運転席に乗り込んだ。辛気臭い話をしてしまったからかもしれないと僕は小さく反省した。あたりまえだけど、人の死の話をされて喜ぶ人はいない。
「何でもないよ」
エンジンを入れて、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
僕の家の墓は、見晴らしのよい高台に建っている。荷物は全部僕に任せて、母は一番手前の墓へ駆け寄った。まだ新しい墓石。父の墓だった。
「父さん、ちゃんと来たで」
そう言って、母はお供え物を上げる前から手を合わしている。僕はその横でバックパックの口を開けて、荷物を取り出した。一向に手伝おうとしない母を尻目に、ひとつずつ丁寧に墓石を洗い、線香に火を付け、お供え物と一緒に墓石へ供えていく。叩き鐘も一通り叩き終わった頃、母が合わせていた手を下ろした。
「巧」
そう言って、手招きする。
「あんたも、よく手を合わせとくんよ」
僕は何もいわずに父の墓へと歩み寄ると、しゃがんで静かに手を合わせた。ゆっくり閉じた瞼が、太陽のせいで赤く見えている。
僕が県立病院に駆けつけたとき、すでに父は冷たく固くなって、顔に白い布が掛けられていた。まるで眠ったように安らかに死んでいたというのをよく聞くけれど、白い布の下から現れた父の死顔は違っていた。苦しそうではないが、眠っているのとはどこかが違う。涙も何も出なかった。病室に安置されたそれは、父ではないように思えた。父の形をした蝋人形だ。もう、父には会えないと思った時、あの時精一杯の速さで来たのに、あれ以上速くなんか来れなかったのに、何でもう少し速く駆けつけれなかったのかと僕は自分を激しく責めた。仕事命のあまりかまってもらった記憶の無い父だけど、僕の進路を誰よりも真剣に考え、応援してくれた父だった。今、父に報告するような事は何も無い。それほどえらい事もしていないし、目標も達成していない。だから、僕は父に伝えたかったことを言った。本当は、父が死んでしまう前に言ってやりたかった言葉を。
「大丈夫。大丈夫だから。心配すんなよ、親父」
母が僕を見つめているのが、気配でなんとなく感じ取れた。夏の蒸し暑い風が、僕の顔を包み込む。
「……ありがとう。巧」
母が小さく呟いた。それが父の声と重なって聞こえて、僕の頭に響く。目頭が熱くなって、閉じる瞼に力を込めた。
家に戻ると、僕は散歩に出かけた。昔、泣き虫だった僕はいまだに泣くのを我慢するのが苦手で、墓参りでの泣きの余韻を一時間たった今もずっと引きずっている。今頃涙が出れば、母に何と言われるのか分かったものではない。散歩で気分転換を図ろうという魂胆だった。
いろいろ道はあるのだけれど、たどり着いた先は芦屋トンネル跡だった。やっぱり、ここは特別な場所なのだ。トンネルの入り口に腰掛けて、ぼんやりを空を眺める。青い空に、カキ氷のシロップをかけたら美味しそうな入道雲がふわりふわりと漂っている。平和だ。座っていると、眠たくなってきて目を閉じた。太陽の光が瞼に当たって、視界が真っ赤に染まっている。しばらく目を閉じていたけど、赤色に耐え切れなくなって目を開けた。目にまだ赤の残像が残っていて、僕が視線を動かすたびに景色の上を気味悪く浮遊していく。いらいらを催すその残像からどうしても逃れたくて、僕は隣を向いた。
「っぁ、うわっ!」
そこで、僕の心臓がのど元までせりあがってきた。すぐ隣には、いつの間にか英ちゃんが座っていた。
「こんにちは」
「ひ、ひひひひ英ちゃん!」
僕は、心臓が定位置に戻るのを待った。息が整うと、隣の英ちゃんを覗き込むように見つめる。
「いつから居たの?」
「ついさっき。巧くんが居眠りしてたときから」
そう言って、俯いて笑い出す。
「巧くん、すっごい驚いてたなー」
「だって、物音立てずに来るんだぜ? 幽霊みたいだよ」
僕は、その一言で再び墓参りを思い出した。再び、鼻の奥がつんとくる。慌てて上を向いた。男のくせに涙もろくて、本当にいやになる。
「巧くん?」
英ちゃんが怪訝そうに見てくるのが分かった。僕は、何でもない、と首を振るのが精一杯だ。そんな様子を見てため息をついた英ちゃんは、僕の背中を優しくさすりだした。昔からよく面倒を見てくれた英ちゃんは、きっと僕が泣きそうなのが分かったのだろう。僕は拒絶するのを示すために、さらに首を強く振った。駄目だ、そんなに優しくされてしまってはどうしようもなくなってしまう。
ところが英ちゃんは、そんな僕の顔を両手で強くはさむと無理やり自分の顔の近くに引っ張った。英ちゃんの白い顔が間近にある。長い彼女の睫毛が、僕に触れそうな程近い距離。何がどうなっているのか分からなくなって、視線を泳がせた。
「我慢したらおえんよ!」
英ちゃんは叫んだ。
「我慢したって何もええことなんか無い。男だからとか、女だからとか関係ないんよ! 泣きたいときは泣きなさい」
「……」
僕が何も言えずに居ると、英ちゃんは頬を緩ませて僕の頭を優しく叩いた。
「そんな張り詰めた顔しちゃ駄目だよ。……ほら、泣いちゃいな」
その瞬間、涙が堰を切ったように溢れ出した。泣いても泣いても涙は枯れない。嗚咽が喉から零れ落ちる。いつの間にか、僕は英ちゃんにしがみついて声を上げて泣いていた。英ちゃんは、優しく背中をさすってくれている。
強く閉じた瞼の色は、赤色ではなく夜のように真っ暗だった。
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